小松芳アラビア舞踊団

5.NYでプロのベリーダンサーとなる

 長らくお待たせいたしましたが、再び「カリーマの部屋」を執筆いたします。
昨年3月に父が他界し、今、山形県庄内の田舎には母が一人で住んでいます。母は父の死後も体操教室(先月はキヨスのズンドコ節体操でした)やコーラスと大変忙しいです。映画や外食も一人で行く元気な母ですが、やはり私の帰省の回数は増えました。母と2人の早い夕食の後の時間が長いのでパソコンを持ち込み朝日新聞の中東情報の有料サイトに原稿など書かせていただいていましたが、ひと段落しましたので「カリーマの部屋」を再開する事ができます。これからは本題も定期的に更新しようと思います。それではNYでプロデビュー後のお話の続きから、始めさせていただきます。

 NY滞在2年目(これはベリーダンス歴2年目!ということですよ)にして私はプロダンサーになることができ、本当にラッキーだったと思います。
しかしデビュー後は、踊りは当然ですが集客のほうもたいへん努力しました。当時はバブルの真っ最中で日本人ビジネスマンの羽振りは最高潮でした。バイト先の日本人バーで「お名刺、いただけますぅ〜」と甘い声でかき集めた名刺に片っ端から「かおるの今月のSHOWスケジュール」と手書きしたレターを何十通も送り付け、なおかつオフィスにも電話をかけまくり、私の出演日には常に日本人ビジネスマンがしっかりと応援に来てくれるようにしました。この銀座のホステスのような客引き大作戦はアメリカ人ダンサーにとって衝撃的だったらしく「日本流ビジネスは確かにスゴい」と語り草になったらしいです。当時日本企業がロックフェラーセンターなどの有名不動産を買い漁り、日本人が大変恐れられていた時期でした。
おかげでエジプト人女性オーナーのサミハに大変気に入られ、一番早い時間(夜9時)のショーをたくさんもらいました。やはり日本人を呼ぶのは早い時間が良いですからね。時間が遅くなるとよりアラブ人受けしそうな実力のあるダンサーが選ばれました。バンドの人数も増え、チップも良いみたいで、ダンサー達の間では「今夜のトリは誰?」と競争心ギラギラでしたが、私は午前中大学に行っていたこともあり夜9時のショーはとても嬉しかったです。出番が終われば来てくださったお客様のお席にお礼に行き、ご馳走してもらったり、また仲間の踊りを見学したり、大変楽しく過ごしました。
週4回ほど、午前中か午後一番までは大学に行っていました。勉強はなるべく大学の図書館でその日のうちに行い、午後はダンスのレッスン。当時ヨースリーとバービー・ファラ※が交代で月〜金の夜6時〜8時にミッドタウンのフェイズルダンススタジオで教えていました。私はほぼ毎回このレッスンに参加していました。その後、慌てて着替えてメークして、夜9時に日本人バーのホステス、または「ザ・ナイル」でのショーというスケジュールでした。



※バービー・ファラ
KARIMA Arabian Dance Company
Ibrahim Farrah
イブラヒム・ファッラー
レバノン系アメリカ人。通称Barbie Farrah。アメリカにおけるオリエンタルダンスの第一人者。ダンサー、講師、振付師として中東のあらゆる舞踊をアメリカに広めた。Near East Dance Group を創立し、各地で公演。雑誌アラベスクを創刊するなどオリエンタルダンスの普及につとめる。
1981年にはRuth St.Denis Choreographers Awardを受賞。1998年死去。
http://ibrahimfarrah.com/



 当時は30歳になったばかりだったので元気ムンムン。日本にいるときも超元気で、毎朝9時から富士通川崎工場でプログラマーなんかやって、夜8時〜11時まで銀座で週2回、関内で水・土曜日ホステスバイトしていました。銀座に行く日は会社が終わってから時間があったので、あり余る体力をもてあまし、玉川の土手などもくもくと走って暇をつぶしていました。当時はバブルの真っ盛りだったので銀座は時給4千円、関内は3千円でした。おまけに銀座はママに直接スカウトされたので衣装代はママ持ち。「かおるちゃん。このドレス着てちょうだい」という感じで、ドレス代0円! おかげで会社の給料を全額社内預金にする事が出来、当時は金利も良かったので金はウハウハと貯まりました。

 NYに来てからも日本人バー以外に、日本の会社で昼2日間でいくらなどの短期ワープロ打ちや事務バイトで稼ぎ(正規の学生ビザを持っていたのと元富士通社員だったため、面接はすべてOK)、暮らしはとても楽でした。大学の休みにはカナダ旅行やカリブ海クルーズでプエルトリコやバミューダ諸島に遊びに行きました。本当にバブルの恩恵たっぷりの時代に丈夫な体で生まれ、バリバリ稼げてとてもラッキーでした。
ダンスのレッスンもベリーダンスだけでなく、アルビンエイリーでモダンを、ステップスでジャズ、ブロードウエーダンスセンターでバレエとジャズ(ジャズはフランク・ハチェットのクラスを取りました)と好みの先生を見つけて受けました。たまにビレッジにあった民族舞踊専門のスタジオでアフリカンやヘイシャンにもチャレンジしてみました。

 ベリーダンスは主にヨースリーに習っていましたが、バービーのクラスにも参加していました。バービー・ファラはまさにカリスマ振付師でレッスン中も異様なオーラを放っていました。目をぎらつかせ、一人ひとりの生徒の顔を睨みつけ ”Walk like a woman !!”などと怒鳴ります。彼の外見はヒキガエルチックな腹の出たゲイのオッサンなのですが、踊り始めると彼の体の奥底に潜んでいる女が「ぐわぐわぐぐわあああ〜」と出て来るのです。最初は顔を合わせるのが怖くて下を向いたりしていましたが、怖がるとますます近寄って来て “Hot sake!”とか“Sushi!”とか意味不明な怒声を浴びせ、ついには “You are tea pot Geisya !:お前はティーポット芸者だ!”などのまったく意味不明なことをいわれ、腕をつかんでぐりぐりとされました。
後にも先にも彼のような異様な先生は見たことがありません。人間的にもかなり変わった人でしたが、素晴らしい先生でした。理論的なマハムード・レダとは対極にある人だと思います。実際、マハムードとバービーはお互い相手が嫌いみたいでした。マハムードはバービーのことをクレイジーなヤツと思っているみたいだったし、バービーはマハムード独特のちょっと無表情な顔つきでエジプシャンフォークロア風のアサヤを踊り、マハムードの事を茶化しているみたいでした。もともとレバノン人とエジプト人は仲が悪いのです。
ヨースリーはまだ35〜6歳の血気盛んな若い兄ちゃんで、踊っているときに笑ってなかったりすると “Smile !”といってほっぺたを叩いたり、振りが覚えられないと髪の毛をつかんで頭突きをされたりしました。

つづく

小松 芳

こまつ かおる
小松芳アラビア舞踊団主催。ニューヨークで最高級のアラビアンレストラン『ザ・ナイル』のオーディションに合格し、ベリーダンサーとしてマンハッタン、ブルックリンで数々のショーに出演。師イブラヒム・ファラより “Karima(カリーマ)”の名を受ける。



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本場エジプトでベリーダンスとアラブ舞踊全般を学び、
正規の就労ビザを取得した小松芳舞踊団のオフィシャルWebサイト © Office KOMATSU and The KARIMA Arabian Dance Company.