9月になり「NY市立ハンターカレッジ」に聴講生として入学した私は、英文学、コンピューター・サイエンス、中国語など勉強したい科目をあれこれとって意欲的に勉強を始めました。日本での大学時代と違い、自分の働いたお金で自分の意志で学んでいる充実感を感じていたのです。
私はブロードウェー96丁目で、黒人の女性ロクサーヌとアパートメントをシェアしていました。
ウォールストリートで働いているインテリで、体重100キロくらいの大きな女性。私たちはとても仲良くなり、感謝祭やクリスマスのたびにロクサーヌの実家のあるアップステートのオルバニーに一緒に帰省しました。
私たちのアパートメントはハーレムのすぐ近くにありましたが、私はルームメイトが小錦のような黒人女性だったのでたいして恐怖心も感じず、2人でいつもハーレムでソウルフードを食べたり、アポロシアターにジャズを聞きに行ったものでした。夜はさすがにひとりでは歩けませんが、昼はゴスペルチャーチやランチによくひとりで出かけ、白人の友人たちにはたいへん驚かれました。日本人は有色人種なので、白人ほど違和感がなかったのかもしれません。
やがて私は週に3回ほど日本人バーでホステスのアルバイトを始めました。ヨースリーのクラスが夜8時に終わるとその足でバスに乗り、バスの中で自分で作ったおにぎりやサンドウィッチを夢中で食べて、9時には店に駆け込みます。それから大急ぎでメイクをして、深夜1時頃まで駐在員のおじさんたちのお相手をするのです。当時の日本はバブル景気の真っ最中で、ティファニーやロックフェラーセンターなどの有名な建物を買い占めていました。Japanese businessmanといえば「rich people!」と即座に声が上がるほど羽振りが良かったのです。私が働いていたお店は「NYにいながら銀座の雰囲気に浸れる」というふれ書きの高級バー、その名も「クラブ扇」。私はこの店でお金持ちの日本人ビジネスマンたちをたぶらかし、チップを稼ぎまくっていたのでした。
チップだけで充分に生活できたので、休日にはよくロクサーヌとカリブ海クルーズに出かけました。一番安い3等船室に乗るのですが、食事は1等船室と同じご馳走が食べ放題。夜は毎晩仮装パーティーやらショーやらに参加し、たいへん楽しかったのを覚えています。夏にはヨースリーとエジプト旅行を楽しみました。当時、ヨースリーは毎年夏の1ヶ月間エジプトに里帰りをしていて、その時期に合わせてNYやヨーロッパの生徒がエジプトに旅行していました。みんなで紅海に泳ぎに行ったり、夜はヨースリーの友人や親戚のエジプト人と一緒にスハール・ザキ、フィーフィー、ナグワ・フォアードなどの大スターを見に出かけ、市内トップクラスのナイトクラブ「キャバレー・チボリ」「ケブドロワール」「ソルト&ペッパー」などに繰り出します。ダンサーと歌手が朝まで入れ代わり立ち代わり踊り、歌います。8月は湾岸のサウジ、クウェート、エミレーツ(アラブ首長国連邦)などからアラブ人がたくさん遊びに来るので、一緒に踊りながら、彼らの踊りを間近で見ることができました。当時、カイロのナイトクラブは毎晩とても活気に満ちていたのです。